風"s・風のたよりオンライン版


2008/6/10 No.134

風のたより134号 ピースボートより その5 スエズ運河にて

 今日1日かけてスエズ運河を渡りました。いままでまわりは大海原だったのが、陸地にはさまれ、食事をしながら見る風景は、車の走る道路が見える、ずいぶん違った風景でした。
 1869年に開通のスエズ運河は建設に12万人の犠牲者がいたそうです。
アカバ寄港報告

■ ヨルダンにあるパレスチナ難民キャンプをたずねて
 6月7日ヨルダンのアカバ港に着き、早朝6時にバスで首都アンマンにむかいました。アンマンから北へ約20Kmのバカーキャンプを訪ね、交流してきました。ヨルダン最大、そして中東でも最大の難民キャンプです。第3次中東戦争の翌年の1968年に創設され、現在人口約12万人、1万4千以上の家族がここで暮らしています。ヨルダンの人口の半分以上がパレスチナ難民です。ヨルダン国籍が与えられ、職業の制限もなく他の地よりは比較的恵まれた状況ですが、あくまで「難民」なので自治は認められません。
■ 二世代、三世代の人が暮らすキャンプ
 キャンプといっても40年以上キャンプで暮らしているのではなく、アンマンの郊外の町の一つにしかみえないようなところでした。
 1967年、パレスチナを終われ着いた当初、テントから10個ぐらい家が、アルミ金属を使った家になり、ドイツからの援助もあり壁のある家になり、その後今あるようなレンガのようなコンクリートのような家になってきた歴史がある。人口が増えているにもかかわらず、政府の規制により面積がかわっていないので、2階建て3階建てと伸びますが増改築の規制もあるということです。
■ たずねた家で……………
 20〜30人づつくらいに分かれて(総勢130人くらい)、家の中を案内してもらいました。大勢で家の中に入り込むのは申し訳ないと思いましたが、案内もあり見せていただきました。
 流しのない台所もありました。水事情はよくないようです。また衛生面でもハエがぶんぶん飛ぶ状態のところもありました。狭いところで大家族が暮らしているようです。あるおばあさんの話では、子どもの誕生1日後に100km以上歩いて難を逃れてこの地に着いたということです。
■ 女性センター訪問
 スポーツ交流・文化交流・ディスカッション交流・子ども文化センター・リハビリセンターなどいくつかのパートに分かれて訪問しました。
 1987年に国連の機関で作った女性の職業訓練所を訪ねました。お昼時間で訓練中の女性たちは不在で、施設運営の人が出迎え、説明をしてくださいました。手工芸品・事務関係・編み物・フラワーデザイン・インターネットカフェなどあり1ヶ月100人以上の人が来ているそうです。ここに来ている人は80%仕事があるそうで、家庭で仕事している人も50%仕事があるそうです。
 手工芸品も少しみせて頂きましたが、まだまだ売れるという品ではありませんでした。指導が必要だと感じました。
■ 交流会しました!
 政府機関のDPAというところで双方で300人くらい集まって交流しました。パレスチナな少女たち8人くらいが歌を歌い、男性たちは伝統的な踊りと組体操をくわえたような出し物を披露、パレスチナのキーボード奏者と日本人が吹くデジリュドゥのコラボレーションをバックに、船内の様子を上映し、最後は「九条を世界に」というテーマの九条ダンスを若者男女30人くらいが披露、船内での練習の成果をみせてくれました。
 船が一日遅れたということで段取りをしていてくださったラミさん(男性)は大変だったと思う。当初一部の人はホームステイする予定でしたが、今回一泊しか滞在期間がとれず4時間ぐらいの滞在となりました。
 とても大変な状況で暮らしている現場をみせてもらうことができたのは、ピースボートがいままで築いてきた関係からだと思います。
■ 死海で夕日をみる、向こう岸のあかりはイスラエル
 5分ぐらい死海で浮くかどうか試して、夕日を眺め、そのあと見上げると三日月がきれいにくっきり暮れ行く空に浮かんでいました。
 一路ピースボートへとバスは向かい、早朝6時出発の12時半帰船というハードスケジュールでしたが、何より体験させて頂いたことに感謝しています。多くの人を引率するって大変なことだと思います。
 次回は、PLO(パレスチナ解放戦線)のワシモ・カズモさんの講演から報告する予定です。

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